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2006.08.23

KKDとGGD

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 KKD(勘、経験、度胸)とGGD(現場、現物、データ)は、対極にあるもののように論じられる事が多い。「これからはKKDではダメだ。GGDでいかなければ。」というように。
 果たして、この二つは相反するものであろうか。KKD を軽視してはいけないのではないだろうか。
 たしかに、データも理論的根拠も何も無く、ただ漫然と心理的惰性のみに流されて、「よくわからないけど、なんとなくこうだろう。」と決めてしまうことが無いとはいえない。この場合は、絶対にこの悪習を唾棄すべきである。技術上の真理は、もっと純粋に、データと理論的考察から導かれるものだと、私は信じている。
 よく、根拠もなしに副作用を恐れたり、幽霊を怖がっているかのような慎重すぎる対策内容があるが、もう、そんな時代は終わったといわねばならないだろう。
 
 しかしである。いかに技術の世界とはいえ、新しいことに挑戦していればいるほど、たとえデータに基づき論理的に考えてみても、難題を解決したりブレークスルーを成し遂げるのは、なかなか容易ではない。それは、そこに単なる論理の積み重ね以上のステップアップが必要とされるからであろう。
 考えに考え抜いたとしても、最後に残ったいくつかの候補が、どれを見ても同程度に確からしいし、また同程度に不安である、という場面がありえる。煮詰まって、先へ進めなくなってしまう。しかし、時間は刻々と迫り、何らかの結論を出さねばならないことがある。
 そんなとき、私は静かに目を閉じ、自分の心のかすかなつぶやきに耳をすます。
何となくではあるがどうもこの手段が一番よさそうである、という声なき声が聞こえてくる。あとはそれを信じ、リーダーとしての責任を負う覚悟で、「これで行こう!」と決断するだけである。この場面は、まさにKKD であるとも言える。しかし、そうではないように思うのだ。そこに至るまでのステップが重要なのである。
 
 人間には、自分も計り知れない無限の能力が隠されているのではないだろうか。日頃の喧騒の中で、その隠された能力に気付かずにいるのではないだろうか。悩みに悩み考えに考え抜いた後、どうしても解が出ないとき、人間の顕在意識では、「あー、もうこれ以上いい考えが浮かばない。決断ができない。」となっていしまう。しかし、潜在意識下にはしっかりと課題がインプットされ、CPU はフルパワーでデータ処理をしている。そして、ちゃんと一つの結論を導き出すのだ。その答えは、論理的思考をしている顕在意識にはうまく伝わらないのである。何か説明はできないが、何となくこれが気にかかるという、まさに、“勘”の形を取って伝えてくれているのではないかと思う。
 
 よって、私は、勘というものを決して侮ってはいけないと思っている。むしろ、勘を研ぎ澄ますようにしている。勘を養うには、身近なことでもできる。
 例えば、4基あるエレベータのどれが来るか静かに心の中に問いかけ、そっと思うドアの前に立つ。「ピンポーン」とチャイムが鳴り、そのドアが開く。また、ダウジングといって、たとえば5円玉の穴に糸を通した「振り子」を手にもち、伏せたカードの中からハートのエースを当てる。そのカードの上では、なぜかわからないが「振り子」が他とは異なる動きをするのである。面白いように百発百中で当たる。(これは潜在能力を信じるためにお奨めの実験です。)
 これらなどは、人間が自分も気付かないうちに、最大限の能力を発揮して解を得ている好例だと思う。その能力の存在を信じることである。もちろん、これを仕事に応用する前提には、正しい情報(データ)のインプット(悩みに悩み、考えに考えること)が必要であるが。
 
 よって、GGDに基づくKKDほど強いものはないというのが私の持論である。考え、悩みぬいた後のKKDは、胸を張って活用すべきである。

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